戦国時代、近江国坂本に住み、天正年間(1573〜91)羽村に移住し、江戸時代初めから名主役を勤めてきた旧家である。
文書には玉川上水の堰普請関係のものが多い。開削当初から玉川兄弟家に任されてきた上水元堰普請修復請負だが、元文4年(1739)9月、3代目が上水役を罷免される。
その理由は諸説あるが、武家と町人とを明確に区別して町方支配体制の強化策を狙ってのことだとの説があり、その後、2ヶ条の法令を出し水道支配に対し、道奉行の機能拡大と権限強化のもと水元町人の権限が後退していくのである。
坂本家は、町名主2名の上水役人による監督指示のもと、下請負人という立場で地元では中心的な位置を占めていた。
町方元請負人を凌ぐ実力を蓄えるまでにまでになっていた。そのまま順調にいけば、坂本家は羽村にあって寛政期(1797〜1812)以後の普請修復請負業の中心的な立場を不動のものとする筈だったが、当主織部の死亡を期に後継者が力量を問われ、それまでの地位と企業力と資力も失い、それにとって代わったのが水番人、指田茂十郎である。
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