ハンス・ハンターが他界して66年を迎える今年の7月15日。中禅寺湖畔で鱒釣りを
中心としたリゾート構想を描いて立ち上げた「東京アングリング・エンド・カンツ
リー倶楽部」の千手ヶ浜レストハウスが全焼してしまった。

日本のフライフィッシング発祥の地とされ、H・ハンターが亡き後は管理人をしてい
た伊藤乙次郎さん、その嫡子の誠さんが起居して「仙人の家」と呼ばれていた。

中禅寺湖畔で同倶楽部の最後の建造物が失われてしまった。H・ハンターの釣り具や
手製の毛針など彼を偲ぶ遺品も灰になってしまった。木造2階建て延べ床面積150平
方bは築100年近くになり、火災でなくとも老朽化で満身創痍の状態だったが、
H・ハンターを知る人には淋しい限りです。

そんな淋しさも漂わせている中禅寺湖畔で、今秋も9月24日午後3時、6回目の
「ハンス・ハンターを偲ぶ会」が、同倶楽部の本拠地であった西六番別荘地跡で
開催されました。
朝から晴れたり曇ったり、午後には一時雨も降ってきましたが、偲ぶ会が始
まる時刻には、薄日が射してきました。今回は日光自然博物館の代表取締
役・高久健一館長も初めて参加。

「日本で初めて本格的なフライフィッシングを導入し、ヒメマスやブラウン
トラウトなどの養殖にも寄与したH・ハンターの功績は大きい」と語り、
中禅寺湖の自然と共に彼の存在をアピールしていきたいと挨拶を。
続いて、ポピュラー歌手・小田陽子さんのスペシャルコンサートが西六番
別荘地内の東屋で開かれました。小田さんはかの「百万本のバラ」を加藤
登紀子さんよりも早く、岩谷時子さんの訳詩で吹き込んでおりました。

小田さんによると、1984年キングレコードからリリース。以来、長年歌
い続けてきた「百万本のバラ」の元の歌はロシア語で、ソビエトの歌だと
ばかり思っていましたが、そのルーツはバルト三国の一つ、ラトビア
共和国の歌だと6〜7年前に知ったそうです。

作曲はラトビアの元文化大臣で著名な音楽家でもあるライモン・パウエル
氏、作詞者はレオン・プリエディスで、題名は「マーラが与えた人生」。
マーラとは子を授け、母性の象徴でマリア様のような存在だそうです。

歌詞は「マーラは娘に尊い命を与えたが、たった一つ与えなかった。幸
せを与えなかった。幸せは自分で探すもの」
…とても意味深な内容で、
旧ソ連邦からの独立を願うラトビアの人々の抵抗精神が込められている
そうです。
小田さんはラトビアについて知りたい一心で、関西日本ラトビア協会の理事
でもある池田裕子さんと知り合い、池田さんを通して今回のH・ハンター忌
に、特別参加。「百万本のバラ」のルーツである「マーラが与えた人生」
を、ラトビアの総領事を務めていたこともあるH・ハンターの肖像写真
の前で、ラトビア語と日本語で熱唱してくれました。

H・ハンター忌に西宮市から毎年参加している池田さんは、「人つながり
で、小田さんのコンサートも実現できたのではないかしら」と、控えめ
に語っていました。

H・ハンターは「東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部」の運営
と並行して、ラトビア名誉領事を務めていました。日本から遠く離れたバ
ルト海に面したバルト三国の一つ、ラトビアの名誉領事を務めることにな
った経緯は定かではありませんが、第一次大戦後の1918年ラトビアは周
辺国から独立。その年にラトビアの青年イアン・オゾリンが来日。

ラトビアの美しい風景

池田さんによると関西学院大学の前身にあたる関西学院高等部で英語教師と
して教壇に立ち、学生たちとも親しく付き合い、神戸市内で飲み歩くフレン
ドリーな人柄だったそうです。オゾリン青年は16ヵ国語も話す語学の達人
で、周囲から乞われて領事役も務めることになったのではないかと。

イアン・オゾリンが1921年に帰国した後、その後任を務めることになった
のがH・ハンターのようです。その年に日本とラトビア両国の国交が樹立
しています。

そうした世紀のつながりで、小田陽子さんが西六番別荘跡を来訪。ラトビア
で誕生した「マーラが与えた人生」の歌を聴くのは、ドラマ以上にドラマ
ティック!参加者たちは胸を熱くして聴き入りました。




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