庄司徳治コレクションより

梶野橋
梶野橋と梶野新田・梶野分水
大正時代の梶野橋
昭和40年に架設され現在も使われている梶野橋

マップ参照
梶野橋は『上水記』に記されている古い橋の一つで、武蔵野新田開発が盛んだった江戸・享保年間(1716〜1736)上小金井村の名主・梶野藤右衛門が開いた新田に架けられた橋。

この梶野橋から南にかけてゆるい下り坂になっており、梶野の坂と呼ばれる一方、後に付近に水車が架けられたことから、水車坂とも呼ばれる
ようになった。

梶野新田は現在の小金井市梶野町1〜4丁目にあたる。梶野新田開発にあたり飲み水や農業用水を必要とした名主をはじめ新田の人々は、玉川上水から水を分けてもらえるよう再三幕府に願いを出し、享保17年(1732)に梶野分水が許可された。

当初は下小金井村先に樋口8寸四方を設けて梶野新田、南関野新田、井口新田五郎左衛門組、仙川村など8ヵ村で利用し、水末まで2里あまりと『上水記』に記録されている。

梶野分水は明治3年(1870)に上流の砂川分水につなげ、下流は深大寺村まで伸び深大寺用水とも呼ばれるようになった。

現在もその水路の一部が関野橋〜梶野橋間で開渠として残っている。また関野橋〜梶野橋を南に下った辺りにある法政大学小金井キャンパス一帯は亀の甲羅形をした窪地で、明治末期までは水田耕作が行われて
た。

梶野分水(深大寺用水)跡

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