在りし日の姿を求めて 25
中禅寺湖畔の宴 その1


現存している千手ケ浜の
レストハウス

昭和4年に撮影された
CHUZENJI SUMMER 1929
16ミリ映画フィルム

(福田和美氏所蔵)

千手ケ浜に注ぐ外山澤川

(福田和美氏所蔵)
  中禅寺湖畔に繰り広げられた国際交流
『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』 の活動を昭和4年に撮影した
16ミリ映画フィルムが日光市立図書館に保存されている。 長年書庫の奥に
眠っていた籐製のバスケットの中から発見されたもので、当時、学芸員をして
いた福田和美氏がアルミニューム缶に収納されていたフィルム を映写機で回
してみると、かつて中善寺湖畔で華やかに繰り広げられた ヨットレースや川で
鱒釣りに興じる外国人らの映像が映し出された!

缶の蓋の内側には『CHUZENJI SUMMER 1929』と書かれていた。 H・ハ
ンターの筆跡だそうで彼が撮影したものらしい。この16ミリフィルムに出会って
から福田氏は『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』に関心を抱き調
査を始め、埋もれていた数多くの資料を発掘して奥日光の近代史を浮かび
上がらせた。それらを集大成したのが『日光鱒釣紳士物語』と『日光避暑地
物語』で、中禅寺湖のバイブルのような存在になっている。

私が小平市公園緑地課の米谷開司郎氏から、H・ハンターと『範多農園』
跡地のことを耳にしてまもなく、 1988年の8月31日の午後
1時25分からN
HK第1テレビの関東ネットワークで、『日光に幻のリゾート倶楽部』と題して
16ミリフィルムが放映されたことがある。まだハンター氏の素性も分からず、米
谷氏から電話連絡を受けて機械的にテレビのチャンネルを回すと、全く想像
もしないエキゾティックな光景が映し出されて画面に釘付けになってしまった!

山並みに囲まれた湖面を滑るように走る白帆のヨット、ボートをこぐ人々の姿
の中には外国人らしき顔もあり、 カンヌかニースの光景ではないかと目を疑っ
た。釣竿を手にしているファッショナブルな女性も明らかに外国人であった。ナ
レーションによると、ツィードのジャケット姿に身を固め竿を振る男性がH・ハン
ターであった。英国伝統のフィッシングスタイルで、彼が紳士のスポーツである
釣を深く愛し中禅寺湖畔に鱒釣りの聖地を築いて、総合的なリゾート施設
を展開しようとしていた構想が、そのフィルムから伝わってきた。

同じく昭和4年5月にはイギリス王子グログスター公が国賓として来日、奥日
光も訪ね『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』では、H・ハンターをは
じめ関係者は盛大な歓迎会を催した。室内には洋蘭が飾られ、日光金谷ホ
テルからベテランコックやウエイトレスも応援に駆けつけ、ハンター氏の描いてい
た真の国際交流がまさに花開こうとしていた。

ハンター氏やメンバーは同倶楽部の所有してモーターボートで、クラブハウスの
『西六番館』から中禅寺湖最奥にある千手ケ浜の釣り場まで移動していた。
クライスラー社製のエンジンを載せたモーターボートは湖畔を20分くらいで快適
に縦断した。歩けば健脚でも2時間あまりかかり、菖蒲ケ浜から先はアップダウ
ンが激しい山道である。

千手ケ浜にはレストハウスを設けて、地元出身で鱒釣りと観光船の船頭をし
ていた伊藤乙次郎氏が管理人をしていた。乙次郎さんはハンター氏の側近
だった伊藤徳造さんの次兄だった。倶楽部解散後は中禅寺湖の漁師となり
その傍ら狩猟を続け林野監視員を務めて後に “奥日光の仙人”とも呼ばれ
た人だった。

昭和4年(1929)というと、ニューヨークの株価暴落から始まる世界恐慌のあお
りで、日本は昭和不況に陥った年であるが、16ミリフィルムからは不況の影は
微塵も感じられない。ハイソサエティの優雅で活気に満ちた宴が記録されてい
た。見立鉱山が稼動して錫採鉱・精錬は順調で、大正14年には日本とラト
ヴィアの通商航海条約が締結されて、H・ハンターはラトヴィア名誉総領事に
就任しており、前途洋々に見えるが…


在りし日の範多農園トップへ