小平市玉川上水を守る会編



              『安松金右衛門』

平林寺境内の安松金右衛門の墓


武蔵野の雑木林に囲まれた
平林寺山門

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『玉川兄弟』によると玉川上水の開削工事途中二度の失敗があった
とされる。幕府は工事の断念を考えるが、老中で川越藩主の松平信
綱は将軍家光の計画を尊重、測量に詳しい家臣の安松金右衛門に設
計のやり直しなど、玉川兄弟の補佐役を命じ、羽村を取水口とした
玉川上水の竣工に導く。

その功績により信綱の川越藩は自領野火止への分水が許可される。
この野火止用水は、玉川上水竣工の翌年の承応4年(1655)2月着工、
安松金右衛門を工事監督として、玉川上水の多摩郡
小川村
(現在の
小平監視所) 先で引き水し、野火止台地を経て新河岸川に至る全長
25`を約40日で通水させた。

関東ローム層の乾燥した台地は潤い、飲み水を供給しただけでなく
新田開発を大いに促進させた。

ところで、安松は西国・播磨(兵庫県)の出身といわれ、武蔵野とは
無縁である。父が姫路の池田藩に仕える下級武士だったとの説があ
るが、後にどうして東国に流転したかは不明である。

島原の乱の際、安松は関東の代官 能勢頼安の下で食糧方を担当、
寛永20年(1644)に推挙されて信綱の家臣になった。算術に秀でるな
ど数理に明るく、野火止用水完成後は川越藩の年貢徴収の基となる
石高を決める検地奉行に収まる。貞享3年(1686)85歳で亡くなり、
信綱同様に平林寺に墓がある。