砂川分水は、明暦3年(1657)天王橋(一の橋)と稲荷橋の間の上流左岸に
あって、分水口は7寸(21a)四方で砂川村だけが利用し、流末まで1里余
り(4`)であった。
享保15年 (1730)砂川新田では、野中新田と共に田用水として試みたこと
があり、その後、延享2年(1745)新分水口の開削によって、これまでの残
堀川中心の集落は、 五日市街道沿いに東西に細長い集落に発展するこ
とができた。
現在の砂川分水堰は、松中橋の上流に柴崎分水口 (立川分水)と並んで
いる。 通船のために水路の整備を行うことになり、 それまで直接上水か
ら取水していた11ヵ所の分水口を砂川用水に一本化したのである。
更に、梶野新田田用水の流末である野崎、深大寺、佐須、金子までの13
`余を延長拡幅し、流末は野川である。 そのことで、田用水への供給も
可能となった。爾後、砂川用水を深大寺用水と呼称するようになった。
五日市街道筋の北側の水路は暗渠部分が多く、砂川三番の一部分が開
渠で、市境の並木町に分岐堰があるが、北側水路は流水ストップ。
南側水路は比較的開渠部が多く、流水は喜平橋までである。深大寺用水
の用水路跡は、空堀りを数ヶ所残すのみで、地図上の軌跡が頼りである。
地方分権一括法により、用水路の所有権は、 平成16年度までに各自治
体に委譲される。
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