武蔵野の新田開発は古く、吉野織部之助が慶長16年(1611)に、青梅街道沿いの新町(現青梅市)の開拓を始めている。
また、慶長年間(1596〜1614)には、村野三右衛門が五日市街道沿いの砂川(現立川市)の開拓を始めている。
その後、玉川上水が承応3年(1654) に開削され、野火止用水が承応4年(明暦元年・1655)に、 次いで明暦3年(1657)に、砂川・国分寺・小川分水が造られたことにより、武蔵野台地の新田開発が促進されることになった。
『武蔵名所図会』によれば 「武蔵野の廣原は猪鹿狐狢のみ多かりしが、天正18年(1590)以来は御上の御徳沢に浴して新墾の地寛永の頃(1624〜44)より始まり、 年々開墾して いまや原野蒼茫たるところなく、凡そ寛永より明暦頃(1655〜58) までに開けたるは古新田と号して何村と呼び、享保(1716〜36) 元文(1736〜41)より村居となれる地を武蔵野新田と唱う。
凡そ80ヵ村ほどあり。これは、多磨、入間、高麗、新座の内にあり。御入国以来開墾新古相交り、
大抵200ヵ村あまりあるべきなり。(中略)享保の頃より上水を分かちて八方へ引き入れる分水口35、6ヵ所ありと云う。これみな武蔵野新田へ分かてる水道口なり」とある。
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武蔵野新田の短冊型農地を留める
小平・回田町付近(後方に連なって
いるのが玉川上水の木立 |
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小川新田開拓者住宅玄関棟
小平ふるさと村で |
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