玉川上水を利用して、物資を運ぶ通船事業は元文、明和、慶応年間3回に亘って出願したが、いずれも幕府からは許可されず明治2年(1869)9月の出願が維新政府によって認可された。
通船は明治3年(1870)4月から2年間ではあったが、荷船の運行に伴い橋の架替えや分水口の整備、船留の新設等の工事に着手することになった。
小川橋上流120b左岸に文化4年(1807)2度目の分水口を小川家文書『玉川御上水通村々惣分水口御改正御請書写』記載の通り、野火止用水堰の右隣りに付替え、新水路は胎内堀
(シールド工法)といって残土排出口の穴を60ヵ所掘り、双方から掘り進み、900b先の小川用水路の開渠口に繋いだのである。
この新堀割水路が「新堀用水」である。小川橋北詰下には小川用水と新堀用水との分岐堰がある。
分水口整備理由の一つには、盗水を防止することにあったとも云われている。従って、北側の7分水は新堀用水に、
南側11分水は砂川分水(深大寺用水)にそれぞれ一本化された。
なお、新堀用水は自然流下のため、常時水位は底部から1.6b以上保たないと送水が出来ないのである。
監視所内の送水口から桜橋までの5.5`を新堀用水という。
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