小平市玉川上水を守る会編



『千川上水』

玉川上水の完成から42年後の元禄9年(1696)に開削された。開削の
目的は、湯島聖堂、上野の東叡山、小石川の白山御殿、浅草寺御殿
への引水にあった。

幕府の命により、工事請負人は、太兵衛・徳兵衛とされている。(のち
両名は千川姓を名乗る) 取水堰は上保谷地先 (武蔵野市境四丁目)
からで、関村、井草、巣鴨、本郷、湯島、外神田、下谷、浅草 の各地
に給水した。然し、正徳4年(1714)の六義園の閉鎖で給水中止。

享保7年(1722)及び天明6年(1786)にもまた廃止となる。

千川上水の取水口は3回の付替えが行われ、新橋の左岸250b下流
に玉石積みの堰と鉄製のゲートが残っており、昭和41年(1966)まで使
用していた。更に、70b上流にも痕跡がある。現在は、旧境水衛所芥
止北詰に付替え取水している。

かつては、産業用水として、明治8年(1875)創業の王子製糸をはじめ、
板橋浄水場にあった陸軍の火薬工場、 王子村紙幣寮抄紙工場へ用
水を利用。その外、水車による精米、小麦やそばの製粉、農業用水は
20ヵ村に波及し水田面積100f、取水制限の際には、「番水約定」のも
と、樋口には水争いを避けるため村役人も昼夜立ち会うのである。

平成元年(1989)高度下水処理水を日量1万d放流、水量の70lは善
福寺川へ、30lは板橋に至り、流末は石神井川である。


千川上水清流復活碑


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