東京の慢性的な水不足を解消し、安定供給をはかるためには村山
・山口貯水池に続いてさらに大規模なダム建設が課題になってい
た大正年間。東京市議会は上水道事業百年の長計に基づき関東一
円で候補地を検討した結果、大正15年(1926)多摩川の上流小河内
村の水根地点が最適地と決議した。
小河内村にその決議結果が伝えられたのは昭和6年 (1931)6月の
ことだった。村民は反対に立ち上がったが、同年9月に起きた満
州事変が契機となり、国を挙げて軍国化していく情勢の中で苦衷
を迫られ「軍役に服して敵弾にあたるも国のため、一時も欠かせ
ない水のため、幾百万市民の生命を守るために犠牲になるのも、
国に尽くし世を救う道である」と、同村議会はダム建設を受け入
れた。
しかし、多摩川下流の二ヶ領用水の水利権を持つ川崎市から小河
内ダム建設反対の声が上がり、ダム建設工事が始まったのは昭和
13年(1938)11月。その間、水没する予定の小河内村、山梨県丹波
山村、小菅村の 945世帯は移転・補償問題の見通しが立たず苦難
した。
さらに日中戦争から太平洋戦争に拡大してダム工事は昭和18年10
月に中断。戦後23年9月に再開され、32年11月26日にようやく竣
工した。ダムの高さ149b、有効貯水量1億8540万立方b。
水道専用ダムとしては東洋一の規模である。
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