野火止用水は、玉川上水が完成した翌年の承応4年(1655)2月
10日に工事が始められ、3月20日には水が流れた、 と川越の
大商人榎本弥左衛門が『萬之覚』で記している。
老中で川越藩主の松平信綱が幕府の了解のもと、家臣で水利に
精通した安松金右衛門に設計と工事を担当させた。玉川上水か
ら最初の分水となったこの野火止用水は、多摩郡小川村 (小平
市中島町)の分水口から台地の野火留村(新座市野火止)を経て
新河岸川に至る全長25`の水路である。その勾配は、玉川上水
の92bに比べて、54bと緩やかである。
用水の分水割合は、玉川7分・野火止3分で、はじめは主とし
て飲料水など生活用水として使用されたが、その後灌漑用水に
も広く活用され、不毛な原野を豊かな大地に変えていった。野
火止の地名は、焼畑農業で野焼きの火が住まいに飛び火しない
よう見張る高台の塚や堤を築いた事によるという。
3世紀もの時代を経て、東京及び近郊の都市化が進み、昭和48
年(1973)、折からの水事情の悪化から、分水が完全にストップ
した。その結果、野火止用水も荒れ放題となったが、関係住民
や自治体の努力が実り、昭和59年(1984)8月21日、生活排水の
高度処理水ながら「清流」が復活した。因みに玉川上水の「清
流」復活は、2年後の昭和61年8月27日である。
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