| 持ち場村は上水の沿岸村々に持場が割当てられ、草刈・汚染防止・高札。分水口を保全する負担を負わされていた。玉川上水
 では、取水口の羽村から四ッ谷大木戸手前の天竜寺門前までの
 村々である。
 
 該当する村は、右岸と左岸にそれぞれ23ヵ村であった。両岸が
 長い砂川村 8543b、小川村8145b、最短は久我山村の380bで
 ある。
 
 長いと、特に隔年一斉の草刈時に重い負担を村民に負わせるこ
 ととなる。上水方役人の通行や見廻りに支障のないよう通路の
 草刈も実施することになっていた。更に一方では、刈り取った
 草は大切な肥料代として草野銭を納入しなければならなかった。
 
 中期以降、ヌカの使用により草の肥料価値が減少したとはいえ、
 草刈作業の負担は大変大きいものである。
 岸にたれた草、屹立した岸、落ちると這い上がる術のない草刈文書によると3ヵ村で 延べ700人との記録があり、この期間中に代田は、人々を呑みこんだ事件もあることから別名「人喰い川」と
 呼ばれていた。筏を組みそれに乗り、下から刈り取る作業は予
 想以上に人手と日数を要し、危険を伴う作業を強いられたので
 ある。すべてはボランティアであった。
 村の芥留で揚がるゴミの量が急増するする関係上、各村々では
 付届けをしなければならなかったのである。
 
 
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            | 持ち場村によってきれいに草刈さ れていた明治時代の小金井堤
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            | 明治元年の玉川上水 堀越正雄著『水道の文化史』
 より
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