武蔵野市八幡町3−8 の五日市街道路傍に、明治の初めに玉川上
水流域の武蔵野新田十二カ村の農民たちの上におきた悲痛な事件
を刻む碑がある。『倚?(いそう)碑)』で「?」は鋤と同義語で『鋤に寄
りかかって生きること』を意味している。
明治3年(1870)、品川県庁からその前年に布達された社倉制度 (飢
饉に備えて農民から新に穀物を取り立て備蓄する制度) に反対した
武蔵野新田十二カ村の農民たちが、 当時日本橋浜町河岸にあった
品川県庁の門前で集団直訴した。社倉制度は江戸 ・寛政期頃から
全国的に実施されていたが、 通常は余裕のある農民が拠出して飢
饉に備えていた。しかし品川県庁が強行した社倉は幕末から凶作続
きの上に、維新後の諸物価高騰に苦しむ貧農にも課された過酷なも
のだった。
一種の増税策でもあったため、 十二カ村の名主や百姓惣代が主に
なって同県庁に取り下げの嘆願書を提出した…が、明治3年暮れに
十二カ村のリーダーたちが呼び出されて、翌年初頭には十二カ村の
代表全員も出頭を命じられ宿預かりに。案じた農民たち数百人が集
団直訴の行動に及んだのを、県庁では兵を配して門前で待ち受け、
51人が捕らえられ首謀者として15人が処刑あるいは獄死した。
事件から24年後、返還された社倉金と農民からの拠出金で『倚(い)
そう碑)』は建立された。高さ2b。
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