『玉川上水起元』によれば、玉川上水開削にあたって、最初は、青柳
村府中八幡下で失敗し、2度日は熊川村で失敗したとある。日く「今
に水喰土と唱え熊川村地内にて水残らす地中に引しすミ流されハ詮方
尽て伊豆守殿家来安松右ェ門を以再応水盛云々」とある。
古上水堀は、五丁橋下流100b のところから平和橋の拝島分水ロまで
約1`である。
五丁橋のところ、今日では「みずくらいど公園」(福生市熊川)とし
て整備されている。
公園内の古掘跡については、立川断層にぶつかって取り止めた説や大
迂回となる掘を途中で止めた説、玉川上水とは無関係の用水掘跡説な
どがある。
『玉川上水起元』に見られる「水喰土」の地名であるが、玉川上水が
完成した承応3年(1654)4年後の熊川村「帳のうつし」(1658)には、
「ほりかいち」の地名はあるが「みずくらいど」の地名は記されてい
ない。しかし、その後の熊川村「水帳」(検地帳・1676)には、「水
喰土」「水喰戸」の二つの記述がみられる。
目次へ戻る
|