小平市玉川上水を守る会編



水番人』

上水管理の実務を担当したのが「水番人」である。

その主な業務内容を羽村で見ると、羽村大堰の修理、水量の調節・
水樋口の開閉立会、水路の巡回、水料、水銀の徴収、更に、上水に
架かる橋修復工事申請の受理と監督、出水急破の際の人足集め、修
復仕様注文帳の作成等であつた。

上水の開設当初から、玉川兄弟及びその子孫は、水役・水元・上水
請負人の仕事を負っていた。玉川家の手代として羽村の青木源兵衛
と加藤儀助の両家は元禄年間(1688−1703)羽村陣屋に常駐していた。

元文4年(1739)3代目の両玉川家は罷免されたが、その後も子孫が
水番人を勤め、寛政6年(1794)からは、6代目指田茂十郎・文化4
年(1807)からは、坂本弥三郎の両家が明治末まで水番人を勤めた。

玉川家の水役・水元役・上水請負人とはいえ、玉川上水奉行―町奉
行―普請奉行―作事奉行等、一貫して幕府直轄のもとに置かれてい
た。水番人もまた然り。

明治政府以降も、民部省―工部省―大蔵省―東京都の管理下にある。
その間、明治27年(1894)4月、水番人改め、「水衛所」となる。新
宿淀橋浄水場廃止後も業務の一部として、芥揚げと水路の取締り、
水質保全と水路敷の管理等を引き継ぎ、現在に至っている。



昭和38年まで使用されていた
砂川水衛所跡


昭和38年まで使用されていた
小川水衛所跡
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