松平信綱は、関東の天領を支配した幕府の下層家臣団の1人、羽生
領の代官大河内久綱の長男として、慶長元年(1596)10月30日に生ま
れた。6歳の時、叔父で徳川氏の傍系一門「長沢松平」氏を継ぎ松
平姓を名乗る正綱のところに養子入りする。
大名やそれ以上を志願してのものといわれる。正綱は家康の側近あ
がりで、信頼が厚く、慶長8年(1603)には信綱を、家康と秀忠に目
通りさせた。
翌年家光(幼名竹千代)が誕生すると、信綱は竹千代付きの小姓に
取り立てられ、その信任を得る。
家光の時代の寛永10年(1633)に老中に抜擢され、「島原の乱」を鎮
めた手柄で、6年後、同16年(1639)武蔵野の北の要衝、川越6万石
の藩主となる。
信綱は、幕府政治の確立に多くの功績を残しているが、川越藩政に
おいても野火止用水の開削や武蔵野新田開発など見るべきものがあ
る。
しかし承応2年(1653)の玉川上水工事着手と同時に、農家55軒を野
火止に移り住まわせていた事、玉川上水の取水地点で2度失敗する
と、家臣の安松金右衛門に野火止用水に勾配などで条件の良い羽村
を選択させた事、玉川上水竣工の翌年、僅か40日間で野火止用水を
完成させ得た事など、謎は尽きない。
信綱は寛文2年(1662)3月16日、他界。新座市野火止の雑木林に囲
まれた平林寺に埋葬されている。
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