小島家は現在の東村山市野口町に代々居住し、水車経営のため明治初期に小平(鷹の台)に移住した。
この小島家に伝わるこの文書は、野口町の本家にも僅か一点の古文書しかなく、野口村の歴史解明に欠かせない基本史料である。本家は野口村半四郎組で名主兵右衛門が初出として登場、主として組頭役の家柄であった。
明治元年(1868)水車受領証としての所見は、昭和10年(1935)のものまで41点所蔵。借受は上水本町荒畑家の敷地内を流れる深大寺用水(砂川用水)の水車を借りて経営開始。
明治39年(1906)12月、鷹の台にある小川弥次郎から水車を買い取り定住することとなる。小島家系図によると半四郎組組頭家を含め10代目に当るのが小島啓次郎氏であり、新小川橋のたもとで現在も米穀商を営んでいる。
小島家一族の墓石は、元は居住地内の普桂庵に分家ごとに並んでいたが、正福寺に移設整備の際に各家の墓石が入り交じり、寛文2年(1662)寺の焼失時に過去帳も灰じんに帰す。
なお、『玉川上水起元並野火留分水口之訳書』を書き上げたのは主家の7代目小島文平(温之)といわれ、墓石は正福寺墓地に現存している。 |