元禄元年(1694)武蔵国多摩郡押立村(現・府中市)の生まれ。名
は定孝。初めは通称、辰之助。父、安信の跡を継いで名主を務
める。
私財を投じて栗林をひろめて貧しい農民を助け、竹林を植栽し
て多摩川の水害に備えた。元文4年(1739)農民扶助の功による
苗字帯刀を許され、南北武蔵野新田世話役を命じられる。小金
井桜の植樹はそれ以前、元文2年のことといわれている。
『小金井市誌』には「寛文10年(1670)に玉川水道の幅を3間掘
りひろげ、両岸に堤を築き、樹木を植えられた(略)寛文10年か
ら70年は松、杉が立ち並んでいたと考えられる。川崎が当時、
松、杉の植え替えの必要に迫られた際、桜に換えることを案出
したのだろう」と書かれている。
桜植樹の時期については異論もある。川崎が南北武蔵野新田の
世話役になるのは、大凶作のさ中で、緒についたばかりの新田
開発に全力を尽くしていたはずで、その頃、農民の憩いを考え
たり、花をめでる余裕があろうはずはなく、小金井桜の植樹は
元文4、5年以降から寛延2年(1749)、美濃へ移る間ではない
かとの推測だ。
川崎は治水代官として美濃へ赴き、のちに石見大森銀山の奉行
を勤め、功により勘定吟味役に。74歳で病没。
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