小平市玉川上水を守る会編



加藤家文書
加藤家文書の『筏通場一件』
(羽村市郷土博物館提供)


羽村堰下公園に建てられている
筏通場の説明板
羽村との係りは元禄14、15年(1701〜2)の時代、加藤善右衛門が堰の番人としてやってきてからである。

文書の中心は享保3年(1718)に起きた筏通し場の堰の通行禁止事件である。紛争は同6年(1721)まで続いた。

それまで江戸のまちづくりに支えられ発展してきた多摩川上流山地の林業・筏関係業者に深刻な影響を及ぼすことになった。

筏が堰を避けて通行できる余地があった頃はともかく、寛文10年(1670)上水路の拡張、堰の増築拡大を図りながら江戸市中への給水量を最優先に確保する必要性に迫られての禁止処置である。

しかし、享保3〜4年(1718〜9)まで出願し許可されていたが、同年秋から一切通行禁止となった。筏通過量が増えたこと、堰の川底が掘られて本流への水量が多くなり上水への取水量が減ったことによる。

その間、通行再開を求めて上流42ヵ村が先願・中願・後願の3グループに分かれて上水支配者玉川両家に陳情するも埒があかず、惣代4人を立て関係役所に訴え出たが、その後村々の分裂・上流3ヵ村が橋下に柵を作り、通行妨害。通行再開のための資金集めへの疑い等、紆余曲折を経ながらも享保6年(1721)9月、先・中・後願グループ間の和談が成立し、道奉行から正式に許可する「覚え」により、筏通行が再開。

加藤家文書の圧巻は「筏通場文書」である。

堰の横に設けられているスロープが筏通し場跡
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