小平市玉川上水を守る会編



『筏通行禁止』

玉川上水の取水量を確保するため、羽村の多摩川に堰が設けられたのが承応3年(1654)。元禄期(1688〜1704)以降になると、江戸市中の発展と頻発する火事で木材の需要が急増、いわゆる「青梅材」を組みあげた筏の流下が盛んになった。

かつては原生林を伐採した「青梅材」は次第に人工造林によるスギやヒノキに代わり、伐採・造材・搬出も江戸商人から地元資本に移るようになった。

ところが、享保3年(1718)、これまで認めてきた筏通行を幕府は突然禁止した。筏の激増で堰の川底がえぐられ、多摩川本流の水量が多くなり、玉川上水の取水量が減ったためだが、「享保の改革」で武蔵野新田の開発が進められ、それへの水の需要が急増したことも背景にある。

幕府は「玉川上水堰往来之輩あらは曲事たるへき者也」という高札を立てた。筏師たちは堰の上流で筏を引き揚げ、川原を運搬するほかなかった。そのため人手や出費が相当かかり、水番人を買収してこっそり堰を通過させてもらった筏師もいたようだ。

筏師たちは、それぞれの村の名主を動かして堰通過を再開するように運動した。第一段として堰から10間(18b)以上あれば筏を揚げてもよいことになったが、享保6年12月、水門から20間離れたところに幅4間、長さ2間の筏用水路が設置された。両側に水流制御の蛇籠を、底にケヤキの角材を並べて、その上を8寸(24a)の深さが流れるようにした。

堰の左側のスロープが筏通し場跡




目次へ戻る