小平市玉川上水を守る会編



『伊豆殿堀』

「一説に松平伊豆守の臣某が考ふる処なり、是に出て野火止分水口
は格別の掘割にて、古諺伊豆殿堀と云」これは『東京市史稿水道編T』にある記述である。

「伊豆守」はいうまでもなく玉川上水総奉行だった松平伊豆守信綱。才気あふれる人物だったことから「知恵伊豆」とも呼ばれている。
臣某とは安松金右衛門のことと思われる。つまり「伊豆殿堀」とは
野火止用水のこと。玉川上水から川越領新田への用水として流され
た。

それまで飲料水にさえ苦労した農民たちは野火止用水によって飲料
水灌漑用水に恵まれ、「すべては伊豆守のおかげ」だと「伊豆殿堀」の名を捧げたというわけである。

この時代、各地に用水路がつくられているが、たとえば伊奈備前守
忠次
(伊奈半十郎の父)が関東各地につくった水路は「備前堀」の呼
び名
がある。

忠次は治水だけでなく、年貢を豊年にも多くを取らず、凶作でも少
なくしないで、平均的な年貢率を維持する方法をとり、民にも生産
による予算性を求めた。この農政の手法を人々は「伊奈流」と呼ん
だ。このような呼称は、つまりは人心をつかむ善政を施した証でも

あっただろう。


昭和59年(1984)8月21日清流復活

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