| 玉川上水に通船を試みたのは、明治3年(1870)4月15日。通船はその後、明治5年(1872)5月31日の通船禁止までの僅か2年間で
 はあったが、通船のための船着場(物揚場)のことを「船溜」と
 いう。
 長短はあるが、船溜の平均の長さ15間(27.3b)、土手にくい込み
 川幅を3間(5.5b)拡幅した。
 「船溜」のことを営業形態から「河岸」或いは「問屋」と称した
 のである。物揚場は5間(9b)、幅2間半(4.5b)。
 明治当初、羽村・砂川の2ヵ所、四ッ谷人大木戸1ヵ所をはじめ4月以降は全域に許可され(羽村〜四ッ谷大木戸)船溜と物揚場
 ・河岸問屋の数は32ヵ所であった。そのうち小平市域は7ヵ所で
 ある。
 現在、唯一原形に近い形を留めているのは久右衛門橋左岸下流北詰に法面がだれて後退している場所である。土留のため、松杭の
 間隔は約60a、杭列は東西方向で上下3段 計10本残存している。
 この場所は、明治5年(1872)5月まで小川村荒井清五郎が久保河
 岸として経営していた。
 一斉に埋め立て工事の着工は、明治8年(1875)8月以降である。なお、大正5年(1916)作成の玉川上水路の実測図には幅6bの淀
 みが記載されており、再度埋立てたものとみられる。現状のまま
 に船溜の遺構として、或いは産業遺跡として残したいものである。
 
 
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