小平市玉川上水を守る会編



保科正之』

第3代将軍徳川家光の異母弟、第4代将軍家綱の後見役、初代会津
藩主、保科正之は玉川上水の開発を発案し、 幕閣の大反対を押し切
って竣工させたと言う。

会津松平家譜の万治3年 (1660)の頃には、「江戸水に乏しく人々之を
困む。正之玉川の水を引きて用水と為さんと欲す。人或は不慮の要害
に宣からざるを議す。

正之曰く、一国一郡の小城は堅固なるを以って主とす。天下府城は万
民の便利安居を以って第一とすと。其の議乃ち決し10余里の渠を掘る。
独り府内其の便を得るのみならず、 左右の広い曠野に之を注ぎ、 新
田を闢くこと40余村の多きに至る」と記している。

*保科正之の年譜

 慶長16年(1611)2代将軍秀忠の4男として生まれる。(母静は、懐
妊後、正室於江与の方の勘気を恐れて宿下がり)幼名、幸松。

 元和3年(1617)信州高遠藩保科家の養子となる。

 嘉永8年(1631)高遠藩3万石を相続。正之と改名。

 嘉永20年(1643)会津23万石に転封となる。

 承応2年(1653)玉川上水開削の許可が出る。

 明暦元年(1655)会津に「社倉」設置。窮民救済策。

 明暦3年(1657)大火に際し、町屋の復旧に尽力。

 寛文12年(1672)病没。墓は、会津・猪苗代町にある土津(はつ)神社。


保科正之公(土津神社蔵)


福島・猪苗代町にある土津神社





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