| 江戸表から水元取締役として侍が執務するための詰め所が上陣屋である。台風時、非常時の増員、突発事故時の緊急処置。早馬で
 江戸表に注進し、上司の指示を仰ぐことになっている。
 
 水道局資料にみる羽村旧陣屋図によれば、玄関・仲の間・詰所・
 次の間・上の間の部屋が一体となっており、勝手と道具置場と筵
 置場があった。
 明和5年(1768)から上水係が江戸町奉行から普請奉行に代わるが、日常は江戸から出向の水番人の指南役。当初は坂本家が陣屋構内
 にある水番人小屋に居住していた。これを帳場と呼んでいた。
 指田家は、自前の家があっての水番人であったため、居住はしていない。
 
 水番人の仕事は役人の出迎え、分水口の開閉、普請の際、出役の
 指図、普請修復仕様注文書、それによる入札等、上水普請・筏通
 場修復を請負うことになり、工事用の資材である蛇篭と枠組とそ
 れの詰石や筵、そだ、俵、松明等の保管場所でもあった水番人小
 屋では手狭になったため、享和2年(1802)6代目の指田茂十郎は
 許可を得て陣屋の外に陣屋を造ったため、指田家を「下陣屋」と
 呼ぶ。その跡地は、社会法人玉水学園のある場所である。
 
 昭和45年(1970)まで、羽村堰の廃材で造ったといわれる陣屋門が
 残っていた。
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