小平市玉川上水を守る会編


軍看板投棄事件』
現在の津田塾大学正門前


昭和19年当時の学校工場
『津田塾八十年史』より

昭和19年(1944)5月、津田塾大学の体育館は日立航空機立川発動機を製作する旋盤の機械工場となった。翌年4月1日夜、津田梅子墓前に焼夷弾が落下し、被害は西寮と運動場の一部に及んだ。同月25日、陸軍東部第9部隊と正式な契約書も作成しないまま、校舎・宿舎の貸与が決まり、5月6日、部隊到着。

それまで塾の正門の右側に掛けてあった塾の門標を外し、部隊の門標を左右に掛けた。その事態を見ていた4名の学生は憤り、深夜作業終了の12時を待ち、軍の門標を外し
玉川上水に投げ入れたという事件である。

翌日事件が発覚。その日は部隊の査閲に当たる特別な日であることから、校内は異常な騒ぎとなり、緊張感に包まれた。憲兵の取調べがあるとか、軍の規律上重罪を課せられるとか、軍法会議にかけられる等の情報が飛び交う中、星野塾長は自分の責任において事を処するので取外した本人は申出るよう訴え、3日目の夕刻4名が名乗り出た。

事件の決着を図るため、星野塾長は部隊本部のある商大予科に出向き、不始末の責任者として謝罪、原因は塾の門標を無断で掛替えたこと、門標は片側だけに掛けて欲しいと要望、話し合いの結果、4名の学生名は公表せずに塾長宛に始末書を提出することで一件落着。軍の門標は小川衛水所の芥留の中にあったのを隊員が発見し、再掲された。



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