見影橋(立川市)の南詰めに田村分水口と同じように小さな分水口
がある。
砂川新田開拓を手がけて代々名主を務めて、地域発展にも寄与し、
玉川上水の水見回り役も務めてきた砂川家が、明治期に新たに分
水を願い出て許可されたのが、『源五右衛門分水』である。
珍しい個人分水で当主の名前から源五右衛門分水と称された。こ
の付近では稀有な水田づくりにも使われた。見影公園は水田跡だ。
明治3〜5年(1870〜1872)にかけて農産物や薪、炭などの物資を
江戸の中心部に輸送する船が玉川上水を横行した、いわゆる通船
の実現にも砂川家は中心的な役割を果した。見影橋下流南岸の緩
くカーブした辺りに船着場があり、巴河岸と呼ばれた。
砂川付近では明治初期以後、養蚕が盛んで桑苗の生産では全国一
を誇ってきた。天皇家にも桑苗を献上している。「皮肉なことに
土地の痩せている砂川で育った苗は養分を吸収するために根が発
達しているので、何処の土地でも成長が早く強い」とのこと。
砂川家の前を横断している砂川分水には安永6年(1777)に直径4・
5bの大水車が設置された。武蔵野地域では最大規模の水車で、
『たまぐるま』の愛称で21馬力もあり、上下芯棒の先に搗き臼20
台、挽き臼4四台が昭和40年まで稼動していた。
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