玉川上水路に沿った村民が開発を出願し、飲料水・灌漑用水の分
水を導水することが許可され、初期の分水口は、承応4年(1655)
の拝島村分水・野火止用水、明暦3年(1657)砂川村・小川村・国
分寺村、次に寛文4年(1664)三田上水。寛文9年(1669)品川用水、
元禄9年(1696)田無村、千川上水、注記・寛文10年(1670)5月、
玉川上水路を3間(54b)拡幅工事を施工し水量増を図る。
分水口には、一定水量の歯止めがかかり、最大の野火留用水口は
6尺(180a)四方、三田用水三尺(54a)四方、 品川用水2尺5
寸(45a)四方、他は平均して1尺(30a)四方である。
初期の分水の水料金は1両、但し野火留用水は無料である。幕府
財政の逼迫から畑作による年貢の増収策として、享保7年(1722)
7月、武蔵野新田開発奨励の高札を日本橋に立て、応募を図った。
当初、幕府から家作・農具の下付、分水路開削費補助・苗・種の
支給等、奨励策を施したのである。
開発の許可制から申出制に切替え、水料金は勿論、無料である。
享保期(1716〜20)の新田開発に伴い、一気に分水が増加し、寛
政2年(1790)の調査によれば、33ヵ所の分水を数えるに至る。
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