福生市熊川の玉川上水『青梅橋』上流から分水して約2`に
渡る『熊川分水』は、近代に入って引かれた数少ない分水の
一つである。
江戸時代から幕府直轄領熊川村の名主として『庭場』という
近隣の共同体の長を務めてきた石川家と村民が一体となり分
水を願い出て、明治19年(1886)に着工。同23年に竣工した。
熊川村はかねてから水利の便が悪く、明治維新以後は特に開
発が立ち遅れており、名主と村民が協力して分水の開削にあ
たったケースとしても目新しい。現在も半間幅の分水路は洗
い場など往時の姿を留めている部分が多い。
石川家は文久3年(1863)に酒造業を始めた。清酒『多満自慢』
の醸造元で多摩川ほど近くに歴史を刻んだ白壁造りの土蔵が
立ち並んでいる。
正門をくぐった先には樹齢四百年を越す夫婦欅が聳え、その
根元に『熊川分水』の石碑とかつては酒造りにも使用された
水路が現存している。
敷地内には熊川村と石川家に関する資料、酒造りの過程を再
現した精巧な模型を展示した資料館が「そば処雑蔵」の二階に
ある。
また明治時代半ばにビールも醸造しており、その名残のビー
ル釜も敷地内に保存されている。
ビール釜
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