小平市玉川上水を守る会編



『伊奈半十郎』
三田村鳶魚説の「悲しみ坂」の由来を
刻んだ『かなしみ坂』の碑


府中市是政1丁目、東郷寺近くにある
金尻坂は「悲しみ坂」から転じた説あり

江戸前期の関東郡代、伊奈忠次の二男に生まれた。名は忠治。武蔵
国赤山(現、埼玉県川口市)に陣屋を構え、父の後を継いで関東、東
海の治水工事、新田開発に当たった。

玉川上水開削では松平伊豆守信綱総奉行のもと、工事の総責任を負
う道奉行として腕を振るった。

半十郎は工事中の承応2年(1653)6月27日に死亡し、道奉行は息
子の半左衛門忠克に引き継がれて玉川上水は完成した。

死の様子について、松浦節の小説『伊奈半十郎上水記』にはこう描
かれている。二度水喰い土にぶつかって工事に失敗、難工事中の
来事である。

「この激闘のさなか、半十郎は倒れた。現場では庄右衛門と打ち合
わせをしているとき、半十郎は突如心臓を押さえ崩れるように倒れ
こんだのだ。砂川村の陣屋に運び込まれた」半十郎は一度回復する
が二度目の発作を起こし、62歳で没した。

杉本苑子『玉川兄弟』では、重なる工事失敗の責任をとって切腹し
たことになっている。三田村鳶魚『安松金右衛門』の中の「悲しみ
坂での失敗の責め苦を負って上級役人が一人死んだ」の記述をもと
に推量した物語で、杉本自身『玉川兄弟』のあとがきで「事実は病
気かもしれないのです」と書いている。

茨城県筑波郡谷和原村に頌徳碑がある。

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